プロフィール

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tomoと申します。

画歴20年の画家で現代アーティスト、デザイナー、教師、ブロガーをしています。ブログのテーマは「アートリテラシーを高めて豊かな人生を目指す」です!

東京藝大卒業後、ドイツ留学で現代アートを学びました。現在は制作活動を行いながら、発信を通して学びを深めています。その経験を生かして「分かりやすく親しみやすい専門的な内容」と「本当に価値ある情報」を発信することをコンセプトにブログ運営しています。

挨拶

改めまして、プロフィールをご覧いただきありがとうございます。

これまでの人生の振り返り的な恥をここで晒させていただいています。

何かの参考になることは・・・ないかと思いますが(笑)

ぼくに興味を持っていただけたのであれば幸いです。

東京藝大に進み、支援を受けながらも留学したところまでは、はたからみてもワクワクするような人生だったのですが、高校の美術教師としてキャリアを手に入れてからの底堅さ、つまらなさはエグイです。

そんな人生を変えていきたい、与えられたポジションで消耗するのはイヤだと思い、このブログをスタートしました。

ぼくの経験や情報が誰かのお役に立てたら幸いです。

引き続きよろしくお願いいたします~^^

※Amazonのアソシエイトとして、当メディアは適格販売により収入を得ています。

【イタズラ大好き】いま考えるとやばい・・・かも?少年時代

絵を描くことや工作することはもちろん、花火や電気工作がすんごく好きな少年でした。

山形県で生まれ、宮城県で育ちました。

田舎だったので許されていたのでしょうね・・・

ミニ四駆を改造しすぎて溶かしたり

1年中ロケット花火や爆竹で遊んでいたり

ストリートアートに挑戦したり

ビニール銅線をコンセントに突っ込んで爆発させたり

クラッカーを分解して作った「ビックリ筒」を小学校の担任の先生に授業中に引かせて爆発させました。

フーフー
ドン引き
tomotomo
先生のあの顔はヤバかった(汗)

修学旅行で買ってきたお土産の白虎刀に紐を巻き、オイルをしみ込ませて近所の空き地で「るろうに剣心ごっこ」をしたこともあります。

志々雄真の紅蓮腕(グレンカイナ)を再現しましたw

もっとマニアックな無敵手甲というものを作ってあったので、そこにロケット花火を仕込むことで割とまじに紅蓮腕(グレンカイナ)を再現(ドヤッ)

るろうに剣心】紅蓮腕という突いたほうが強い技www : あにまんch
出典 るろうに剣心

とまあ田舎の良さをフル活用し、のびのびと育ちました。

・・・いま考えたら本当にやばいですね(汗)

松任谷由実 – やさしさに包まれたなら
「小さい頃は神様がいて、不思議に夢をかなえてくれた」

この歌詞を本気で信じてます!

いろいろ実験しましたが、人や動物を傷つけたりはしていませんよ〜!

【中3→3浪】7年間もの受験勉強時代

長かった受験時代のお話です。

美大・藝大受験を考えている方には参考になるかもしれません。

よかったらどうぞ。

【現役から1浪目】までは部活のように

本格的に絵を勉強始めたのは、割と早くて中学3年生の頃でした。

中高ともに普通科の学校です。

予備校に通い始めたのは中学3年生の夏ごろでした。

そこから長~い浪人生活が始まることになるとは・・・。

東京藝大と愛知芸大の国公立のみ受験しました。

格好良く聞こえるかもしれませんが、家の経済状況を考えると私立大学はかなり厳しく、学力も多摩美・武蔵美を受けられるほどは無く(泣)

いや、正直に言って勉強したくなかった!

絵だけ描いていたかったんです・・・!!

一応格好つけて言うと「絵なんてもので食っていくなら芸大ぐらい出てないとだめだろう」と思っていました。

そんな理由で受験しました。

現役からもちろん全力で取り組みましたが・・・

あえなく撃沈!

さらっと1浪目がスタートしました。

この時点では、いま思えばずいぶん甘い思考をしていました。

毎日絵を8時間ほどは描いていましたが、1浪目も撃沈

まだ普通に頑張っていればなんとかなるとか思ってましたね。

【2浪目】気づいた時には時すでに遅し!

2浪目は外に出なければいけないと思い、これまでの努力に加えて東京都内の模試(受験直前)などを受けに行きました。

結果はほぼ最下位。

一緒に模試を受けた地元の予備校仲間は、宮城に帰るまでずっと泣いていました。

ただ、ぼくはこう考えていました・・・

tomotomo
コレ、いままでやってきたこと合ってるのか?

根本的なことを疑い始めました。

地元の予備校で教えられてきたことと、模試の結果や東京での指導結果がどうにも食い違うので、

「どうやら間違った方法を教えられている」と気づきました。

あとで分かったのですが、間違っているというよりは古いやり方でした。

地方予備校はそういうことが多いようです。

地方の試験会場でも昔の自分のような人をたくさん見ました。

東京の予備校の先生に言われたのですが、「初めに持ってきた絵、あれは藝大で最も嫌われる描き方してるよ」でした・・・。

誰に習うか、どこで勉強するかというのは超重要です!

いまはSNSやYOUTUBE、こうしたブログなどでも学べるので同じ失敗をする人は減っていると思いますが。

さすがに年末の模試から立て直すことはできず・・・

2浪目も撃沈しました!

【3浪目】ストイックに全力で!もうセンターは受けたくない(泣)

3浪目は、地元の予備校を辞めました。

裏切り者扱いされて、やめてからも酷い言われようでした。

tomotomo
ただ予備校辞めただけなのに・・・

深夜のパン工場でアルバイトを始めました。

受験費用を捻出するためです。

深夜給だったので結構稼げました!

前半は自宅で通信教育を受けて昼に課題をこなし、愛知で夏期講習を受けにいきました。

直前は都内で母の友人宅に居候生活をさせてもらいながら、冬季講習+直前講習を受けました。

tomotomo
移動は全て深夜バス!
もう一生分深夜バスに乗りました・・・

直前講習期間は、帰宅後も細密着彩(できる限り水彩でリアルに描くもの)を1枚以上など、できる限りの努力をしましたね。

やりすぎたのか、試験前日に朝起きたら38.0°Cを超える熱が出て病院で点滴を打っていました。

さすがに泣きました・・・なんのためにここまでやってきたのか。

画材も予備校に置きっぱなしで、手元に無いし。

なんとか予備校に連絡し、知り合って間もない予備校生の友人に画材を届けてもらい受験に臨みました。

tomotomo
ようやく合格することができました!!!

河合塾の予備校パンフレットに載せてもらった講評です↓

【念願】藝大での大学生活!

カオス!東京芸術大学は「最後の秘境」だ | 今週のHONZ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

なんとか晴れて藝大生になれました!

この受験のおかげで自分に自信がつきました。

それまでの人生でなにかを成し遂げたと言えるものは何も無かったからです。

絵だって小学生の頃に1度だけ表彰されたことがある程度でした。

藝大での4年間の大学生活は、間違いなく人生を変えてくれました。

3浪したせいでスタートは遅れましたが、それでも余りあるリターンはありました。

それでは大学生活を振り返ります。こちらもあまり参考にならないかと(笑)

【1年生】田舎から都会へ山を降りてきた22歳

当時はかなり浮かれていました。

ただ、弟の現役受験と時期が被り見事二人とも合格!

そして・・・

tomotomo
入学金や授業料を払えない

という事件がありました!

親もまさか本当に受かるとは思ってなかったようです。

まぁそうですよね、倍率20倍超えでしたからね。

tomotomo
運もよかったです!感謝!!

学費もなんとかしてもらいました。

生活費は奨学金を借りました。

tomotomo
あと12年かけてゆっくり返していきます

一番最初に始めたことはバイト探し、当時の住んでいるところの近くの居酒屋でバイトを始めました。

最初は人間関係も目に入るものも全て新鮮で、ひたすら吸収の毎日でした。

受験のことしか考えてこなかったので、この段階でようやく絵と向き合い始めました。

日本画科の受験=基礎力養成

大学での授業=作品制作(自己表現?)

当時のイメージはこんな感じ。

日本画が好きとは思っていたのですが、あまりにも他の絵画や芸術作品のことを何も知らない自分がそこにはいました。

そもそもはデザイン科にいたのですが、地元予備校のデザイン科受験のための指導能力に疑問を感じたので、戦略的理由で日本画に転向したのです。

【2年生】東京でのキャンパスライフスタート

美術学部の1年生は取手キャンパス(茨城県)で授業を受けます。

なので2年生の時は引っ越ししました!

取手は思い出深く、居心地が良く、友達もたくさんできて幸せでした!!!

妻ともこの時期に出会いました。

授業が終わって楽しくバイトをし、バイト終わりに深夜のボーリングに仲間で行ってラーメンを食べる!

それはそれですごく楽しいのですが、どこかで違和感を感じていました。

あれ?これでいいのかな?

なんのために藝大入ったんだっけ?

ー絵を描くことで生きていくためだよ!

そう思い直し、取手を出ました。

2年生ではコンクールへの出品などに積極的になりました。

大小問わず、とにかく応募しました。

青山での第15回新生展(新生堂・東京)や第28回FUKUIサムホール美術展(福井)などで入選し展示の機会を得ました!

入選すらしなかったものもありますが「とにかく行動しなくては!」と作品をつくっていきました。

しかし、作品応募にはお金もかかります。

額代・作品制作費・出品料・梱包費・配送費など。

バーでのアルバイトを掛け持ちしながらの生活でした。

取手時代のアルバイトの初出勤では

「スターウォーズのC3POのようだ」

出典:スターウォーズ

とバカにされていましたが(笑)

その頃にはコミュニケーションスキルも身につき、新しいバイトもこなせるようになり、なんでもできると全能感すらありました。

そこで、もう1つハードめな居酒屋の深夜バイトを増やして泣くことになりました。

バイトを増やしたあたりから歯車が狂い始めました・・・。

不登校の生徒の気持ちが少しわかりました・・・。

人間関係が上手くいかず、3ヶ月ほどで辞めました。

キツめの社員さんに当たられていました。

新人で、できないことが多いのはそんなに悪いことですかね?

tomotomo
飲食業界は大変です

資金面での問題が解決したわけではないので、次の手を打ちます。

そうだホストになろう!

うーん、我ながらやってしまったと思います(笑)

とにかくホストの勉強を始めました。

ホスト関連の本を5、6冊は読んだころには、あまり儲かる仕事ではないと気づいていました。

しかし興味のほうが勝ってしまい、近くの小さなホストクラブに入店しました。

少しですが垣間見た夜の世界は刺激的で、悪い経験ではありませんでした。

ただお酒(ホストの仕事)・バーでのバイト・授業・コンクールとハードなスケジュールに体がついていかず・・・

喉をやられて声が全く出せなくなってしまいました。

太客が1人ついてくれたタイミングだったので、ある意味順調でしたが・・・

ホストも2ヶ月くらいで辞めました。

バイト代は手切金(そういうものらしい)として渡したことで、すんなり辞めることができました。

すんなり辞めることも難しいらしいですね。

稼げるどころか逆にお金を失うことも珍しくありません。

当たり前ですがみんながローランドにはなれないのです(笑)

その後2ヶ月ほど声の出ない生活が続きました・・・

【初の成果!】三菱商事アート・ゲート・プログラム奨学生

三菱商事アート・ゲート・プログラム2011年度奨学生展(EYE OF GYRE3F・ 東京)

この頃から、また人生が変化していきました!

お金って大事。

まだ夜のバイトをしていた頃に、電話が鳴りました。

「奨学生として奨学金の需給が決定しました」

支援の額は100万円で、さらにチャリティオークションで1作品10万円での買い上げが約束されるといった「三菱商事アート・ゲート・プログラムプログラム」の審査に通りました。

奨学金とは本来は返金不要ものを言います(日本学生支援機構などは教育ローンです)。

貧乏大学生にとっての100万円は・・・

でっかい!!

大袈裟ではなく人生変わると思ってました。

個別のオークションも入れるとトータル150万円は支援してもらいました。

tomotomo
本当にありがとうございました!

この体験が自信と人脈と留学へと繋がっていきます。

【3年生】守谷育英会・日本文化藝術財団からも支援決定!

守谷育英会奨学生への記念メダル

完全に波が来ていました。

三菱商事アート・ゲート・プログラムに続いて守谷育英会、日本文化藝術財団からのご支援が決定しました!

・守谷育英会から毎月12万円 (学部卒業までの約1年間受給)

・日本文化藝術財団から30万円

それぞれ書類審査と面接があります。

ふたつ覚書きしておくと・・・

大学での成績は非常に重視されます。

特に美大生の成績はボロボロなことが多いらしいです。

面接のときに面接官がぼやいていたくらいなので(笑)

そして、②推薦状です!

教授に書いてもらう文章です。

この文章は奨学生応募で最も重要視されるものらしいです!

ぼくも今では何かと生徒の推薦状を書く立場になり、毎回全力で書いています!

tomotomo
教授には感謝しかありません!!!

この3つの奨学生プログラムのおかげで ”留学” を視野に入れて行動するようになりました。

【卒業後の進路】日本画から現代美術へ

case shibuya (psychogenic contemporary art syndrome) 2011

全然美術の話を書かずにきてしまいましたが、もちろん作品作りもずっと続けてきました。

コンクールに出品したり、奨学生の展示会や報告会など別種の忙しさになっていきました。

大学の友人たちとグループ展をやったりもしました。

ここではもうバイトを止めて、勉強に集中できるようになりました。

制作の合間に、本を読み、ギャラリーを回って勉強をしていくと、どうやら非常に狭い世界の知識で生きていたことがわかってきました。

その中で致命的で大きいものを上げると自分の所属している学科についてです。

”日本画”ですね。

日本画は嫌いではないけど、ずっとやり続けるのは違うかなと結論を出しました。

そのころ特に影響を受けていたのは、村上隆や奈良美智といった現代アートバブルのトップスターたちです。

彼らは留学を経験しています。

これは行くしかないのでは?

そう思っていました。

美大生が早くにアーテイストとして世間に認知されるにはいくつかのパタ-ンがあります。

アーティストのデビューへの道

⓵大学院、博士課程、助手と大学に籍を置く

②大きな美術展で賞を取りまくる

③海外で有名になる

だいたいこのパターンに集約されます。

⓵は非常に手堅いのですが、身近な仲間との厳しい競争や長い時間がかかります。

それに本人の適正もあり、ぼくの場合、日本画一本はちがうと思っていたので不適格。

②は2年生の頃から挑戦を始めて、入選・入賞はできても最優秀賞を連発とはなりませんでした。

ということでざっくりいって③しか残っていなかったということですね!

③つまり留学です!

とはいえそこまでお金に余裕があったわけではありませんし、時間もありません。

そこであの国に行くことにしました!

【4年生】ドイツ留学準備とW卒業制作展

大学生活の4年間は濃密であっという間の時間でした。

もう卒業まであと1年になってしまいました。

4年生では卒業制作があり、1年間をかけて1つの作品を仕上げます。

それが一般大学でいう卒業試験にあたるということです。

そこで問題が発生しました。

「日本画科では立体作品を展示すると卒業できない」

そこで尖っていた当時のぼくは

tomotomo
日本画ってほんとコンサバでイヤ!

とか思ってました(笑)

それでも学部を選んだのは自分です。

現状うまく回っている状況の日本画を否定するのは筋違いだと自覚もありました。

そこは受け入れてきちんと卒業しようと作品制作します。

ただ・・・

やりたいことをやらないのはアーティストとして終わっている

ということで卒業制作展を別会場で学生主体でもう一回行うことにしました。

2013.3   SOTTEN2013(代官山ヒルサイドテラス・東京)↓

代官山ヒルサイドテラスにて 山下裕二氏を招いての講評会の様子

あんだけ苦労して入った藝大で人脈もいま一つ作れずにいたので、

がんばって代表とかやってみました。

デザイン科、建築科、油画科、工芸科、芸術学科、彫刻家、日本画科、院生の方々、音楽科の方々、その他いろんな方にも協力いただいて無事に開催することができました。

スペシャルゲストに山下裕二さんやレントゲンヴェルケの池内務さんなどにも来ていただき講評をしていただいたりしました。

ハゲるほど大変だったけど、やってよかったです!!!

資金集めから会場つくりまで1から10まで学生の手で行いました。

藝大といっても他の科の人たちがどんな人で何考えてるかとかあまり知らないので、横のつながりを持てたことで、めちゃくちゃ勉強になりましたね!

制作・展示した作品↓

record / 記録 2013

そして留学のほうですが・・・

3年生の終わりごろにはもう留学することは決めていて、留学先もほとんど決めていました。

それはドイツです!

なぜドイツにしたかというと、

留学先をドイツにした理由

・大学の学費が無料であること

・奈良美智や塩田千春などの有名作家がドイツ留学を経験していること

・現代美術が盛んであること

・オラファー・エリアソン、イケムラ・レイコなどのスターが大学教授をしている

・そして・・・英語がめっちゃ苦手だからです(笑)

いろいろ突っ込みどころはあると思います(笑)

ま、それでもちゃんと1年間行けたのはエライかなと自分をほめたいです。

ドイツ語の勉強のためにゲーテ・インスティテュートというドイツ語の学校に通い始めました。

1年間の事前勉強に、留学前の視察旅行…したけど

tomotomo
ぜんぜんドイツ語上達しませんでした!
tomotomo
とはいえ、行けばイヤでも覚えるだろ

そんなことをしているうちに藝大生活もあっけなく終わってしまいました~。

【留学開始】最悪の精神状態?!孤独な奮闘とその結果

結論から言うと・・・

留学作戦は失敗しました!(笑)

何を成功というかって感じですが、思い描いていた甘ーいシンデレラストーリーにはなりませんでした。

tomotomo
×ベルリン藝大は不合格
×ドイツ語試験も中級不合格
×300万ほどあった資金も使い果たした
×コンクール、レジデンスも不合格
×うつ症状が出た!?

う~ん、悲しくなりますね。。。

悪いことばかりでもなくて・・・

tomotomo
〇ドイツに友達ができた
〇ドイツ、オーストリア、スペインを見て回った
〇旅行と生活では見える景色が違った
〇現代美術作家とも交流を持てた
〇圧倒的な客観性を身につけた
〇ドイツ語での日常会話ができるようになった

たくさん自分と向き合う時間があったので、たくさん勉強しました。

自分に語学のセンスがないことも自覚できました。

自分を見つめても何にも出てこないことも自覚しました。

半年経ったころには、もう帰ろうと決めていました。

ただ、半年では留学経験があると言い辛いことや、まだまだやりたいこともあったので勉強期間として残り半年を楽しむことに決めました。

藝大といえば日本では凄いと言われることのほうが多いですが、海外では、

フーフー
なにそれ?おいしいの??

まじでこんなです。

ドイツの大学に受かるのにも、コネクションや傾向と対策があったり共通点もありました。

結局ぼくの描いた理想は、絵に描いた餅だったということです。

ありもしないユートピアを崩壊させることのできたことが、ドイツ留学の最大の功績だったと今では思っています。

≫ドイツ留学で学んだことは沢山ありました。こちらで詳しく記事にもしています。

【現在地】美術・絵を描くことで生きていくには

現在は高校で美術教師をしています。

授業や部活で絵や工芸を教えています。

その傍らで、絵を描いて展示会をしたり、

デザインをしたり、

こうしてブログを書いています。

tomotomo
これからも絵を描いたり、美術教育できる環境に身をおいていきます!
それが、ぼくの人生をかけての目標であり生きがいだからです

その中で「アートを生活に活かして心豊かに生きている人」を一人でも増やしたいです。

今後もこのブログを通してあなたの人生の役に立てれば幸いです!

長文にお付き合いいただきありがとうございました!

このブログの案内ページはこちら↓

略歴

Tomo

1987 宮城県出身

東京藝術大学日本画専攻卒業(2013)

ドイツ留学(2013-2014)

現在は、現代アーティスト、教師、ブロガー、デザイナーとして活動中

個展

2016.7  光 / Licht(Gallery kiku・山形)

2015.7   Mondberg(Gallery kiku・山形)

2014.11 記憶の記録(Gallery kiku・山形)

グループ展

2013.3   SOTTEN2013 企画・運営代表(代官山ヒルサイドテラス・東京)

2013.2   東京藝術大学卒業制作展(東京都美術館・東京)

2012.8   三菱商事アート・ゲート・プログラム2011年度奨学生展(EYE OF GYRE3F・ 東京)

賞 

2017.4   第35回上野の森美術館大賞展(東京)入選

2017.2   ACRYL GOUACHE BIENNALE 2016(東京)入選

2013.6   第19回三菱商事アート・ゲート・プログラム(EYE OF GYRE3F・東京)入選

2013.1   TURNER AWARD 2012(東京・大阪・仙台・札幌)優秀賞

2012.10  第9 回西脇市サムホール大賞展(西脇市岡之山美術館・兵庫)入選

2012.9   ART AWARD NEXT 2012、東美アートフォーラム(東京美術倶楽部・東京)

2012.5   日本文化藝術財団奨学生

2011.5   三菱商事アート・ゲート・プログラム奨学生

2012.6   第15回三菱商事アート・ゲート・プログラム(EYE OF GYRE3F・東京)入選

2011.8   第15回新生展(新生堂・東京)入選

2011.7   第28回FUKUIサムホール美術展(福井)入選

教育

2009-2013   東京藝術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業